読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「あいつホンマに頭悪いわ」

徒然なるままに
A「だから、〇〇〇〇って言ってるやん」
B「わかってるよだから〇〇〇〇やって」
A「いや、わかってるよだから〇〇〇〇やって」
B「だ〜か〜ら〜」
A(Bってなんでこんな頭悪いんやろ)
B(Aってなんでこんな頭悪いんやろ)
 
こういう不毛なやりとりは身近によくある。
日本語なのに通じていない。
 
一体何がこのすれ違いを生むのだろうか。
 
人には知能の差があるから?
文系理系?年齢?性別?宗教?
 
確かにこれらの要因は大きいだろう。
だがもっとこう、根本的な要因…
 
言葉によるコミュニケーションという
システムに問題があるのではないだろうか。
 
そもそも、言葉によるコミュニケーションは
どんなプロセスで行われているのだろう。
 
 

f:id:Ichigoh:20170223131645j:plain

f:id:Ichigoh:20170223131720j:plain

 
伝える側は、まず「伝えたいイメージ」を
自分の中の「言葉のイメージ」のブロックで構築し
発信する。
 

f:id:Ichigoh:20170223131749j:plain

 
伝えられる側は、受信したブロックを分解して、
自分の中の「言葉のイメージ」に置き換えて解読し、
脳内にイメージを再構築する。
 
 
つまり、伝えるイメージを、
言葉という共通の道具を使って記号化して
やりとりをしているということになる。
 
しかし
そもそも共通の道具である「言葉」の定義は、
人それぞれの概念であり、とても客観的なものとは言えない。
 
共通の部分があるというだけで、
完全に一致しているわけではないのだ。
人それぞれの過去の経験や環境が
人それぞれの言葉の概念に大きく影響を与えることになる。
 
よく考えてみれば、
小さい頃は、言葉のすれ違いをあまり感じたことがない。
これは、比較的似たような環境の
小さなコミュニティで生活していることと、
経験値が少ないために、概念がまだ発達しておらず
言葉のイメージの細かいニュアンスを用いた
表現をしないからであろう。
 
コミュニケーションがうまく取れないという問題は
現代でも大きい問題である。
 
それでは、言葉というものは、
常に厳密なものでなければいけないだろうか。
 
僕は厳密でないことも重要だと思う。
 
言葉は、その自由度があるからこそ
様々な美しさを生み出すことができる。
 
そしてこの自由度の中
伝える側と伝えられる側のイメージが、
しっかり結ばれた時、
両者に広がる世界は共有され
両者の世界の障壁はなくなる。
なんという一体感。
 
これは、完全性からは生み出せないだろう。
 
伝わらないことを
相手の責任にする前に
 
伝える側も伝えられる側も
この一体感を目指してはどうだろうか。